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残そう昔の風物 ―安藤家の長屋門―
■ 500年の歴史を見てきた安藤家の長屋門
【小杉陣屋町・安藤家の長屋門】
江戸時代の初め、川崎宿を通る東海道はまだできあがっていませんでした。その頃の江戸に入る幹線道路は中原街道。東海道の平塚宿から中原村-用田-中山を通り、小杉村から丸子の渡しを通って江戸へ向かっていました。その当時、江戸に入る玄関口にして、小杉御殿界隈は川崎一番にぎやかな場所だったそうです。
現在、中原街道の拡張工事が進み、当時の建物はほとんど見られません。直角に曲がったせまい「かぎの道」=下の写真=がその面影を残しています。(小杉御殿前でカギ型に曲がっていたのは、軍事的な配慮だったと考えられています)しかし、当時の建物が今も街道沿いに残されています。それが安藤家が先祖代々守ってきた長屋門です。
ただ通ると見逃してしまうかもしれません。でも、中原街道沿いには「川崎歴史ガイド・中原街道ルート 旧名主家と長屋門」の案内板があります。「江戸時代この辺りの名主の代表格だった安藤家。代官から賜った長屋門が今に残る。門の内側にある高札のほか、この旧家には古文書、絵図など貴重な歴史資料が多く残されている」。
一方、東海道の川崎宿場は戦災などで古い建物は焼失し、宿場の面影はほとんどありせん。
小杉・丸子地域も1945年4月15日の空襲で医大病院や大西学園がまっさきに攻撃をされ全焼したのをはじめ、新丸子駅西口から小杉町1丁目まで完全に焼野原となりましたが、長屋門は戦火から免れました。
川崎郷土研究会役員の羽田猛さんは自主出版本「写真で綴る 中原街道と周辺の今昔」の中で次のように記しています。
「入り口の長屋門は江戸中期、名主であった安藤家へ代官の娘が嫁入りした時に、江戸の代官屋敷の裏門を運ばせ、ここに建てたものと伝えられている。
門の左側に大きな木の幹の一部分が保存されている。このような「けやき」が、安藤家の前から西明寺方向に並木のように街道をおおっていた。道の両側には用水掘があり、綺麗な水が流れていた。
しかし、電話線が引かれたり電柱が建てられたり、道幅が広げられたりなどで、木も用水もなくなってしまった」。
ただ通ると見逃してしまうかもしれません。でも、道路沿いには「川崎歴史ガイド・中原街道ルート 旧名主家と長屋門」の案内板=写真右下=があります。「江戸時代この辺りの名主の代表格だった安藤家。代官から賜った長屋門が今に残る。門の内側にある高札のほか、この旧家には古文書、絵図など貴重な歴史資料が多く残されている」。
安藤家は戦国時代に小田原の北条市に仕えた安藤因幡主につながる旧家。北条氏が1590年に豊臣秀吉に敗れると、安藤家の祖先は農民となり小杉に定住し代々名主を務めていたそうです。
長屋門には3枚の高札が掲げられています。羽田さんは著書の中で、その一つを分かりやすく次のように紹介しています。
1.人たるものは、五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の道を正しくすべき事
1.妻や夫をなくした者、幼くして親のない者、老いて子をなくした者を、病によって不具になった者を、あわれむべき事
1.人を殺し、家を焼き、財を盗むなどの悪業あるまじき事
慶応4年(1868)3月 太政官 (参照)
■ 江戸初期の小杉村は、川崎で一番にぎやかな場所
川崎歴史研究会発行「やさしい川崎の歴史」には次のように記されています。
「家康は小杉村に宿舎を造り、江戸に入る地方の大名や家来たちの休む所にしました。はるばる遠い地方からやって来た大名や武士たちは、ここで疲れを休め、多摩川を渡って江戸に行きました」。
将軍たちは「お鷹狩り」といって、時々この地を訪れ事情を調べ、休養しました。将軍様のお休みところとなるので「小杉御殿」と呼ばれるようになったいわれています。ちょうど現在の「かぎ」道=写真=の当たりに宿舎がありました。御殿内には御賄屋敷、御蔵屋敷、御屋敷など立並び、その敷地は、中原街道と多摩川の旧土手との間に1万2千坪(約4万㎡)に及んでいました。
「自然、江戸へ行き来する大名・武士・町人・旅芸人などの人びとで、小杉村はにぎわってきました。一ぜんめし屋(食堂)・はたご(旅人の泊る宿)なども、街道に建ちならびました。この付近の人々は、今まで見たこともない各地方(国)の武士を相手に、活発な商売をはじめました。こうして、江戸初期の小杉村は、川崎で一番にぎやかな場所になりました。
このような侍たちへの心づかいも、全国の大名たちを、しっかりおさえようとした家康の考え方でした。細かなところにぬけ目がなく気を配る政治、これが徳川氏の方針であり、江戸幕府を長くした土台なのです。まもなく、川崎を通る東海道ができると、この中原街道も小杉村も、次第にさびれていきました」。
しかし、中原街道は、江戸への距離が東海道より短いため、平塚の酢や秦野煙草の運送、沿路の物資や農作物の郵送に利用されるようになりました。
■ 「安藤家長屋門」の川崎市文化財指定」へ請願
「この由緒ある旧家の長屋門を、ぜひ川崎市の文化財に指定し、後世にしっかりと保存、継続していただきたく、お願いし申し上げます」という著名活動が行われています。
この歴史ある中原街道は大きく姿を変えつつあります。しかし、安藤家長屋門のようにその歴史の痕跡は今もの脈々と残ってきました。
■参考資料
●歴史と緑の散策マップ・・中原区役所のホームページに散策マップが紹介されています。これは「なかはら20年構想委員会」の協力で、「中原区役所区民協働推進部地域振興課」が作成しました。JR武蔵中原駅から東急新丸子駅までの全長5.2㎞、時間52分の「歴史の道探訪 中原街道コース」中に「名主長屋門」があります。
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今昔物語 番外編 川崎宿
■ 田中休愚の貧乏脱出作戦
川崎は江戸時代に東海道53次の中で最後に作られた宿場。多摩川の下流は六郷川と呼ばれ、あばれ川で大橋をかけても流される交通の難所でした。当時、川崎宿は大変貧しく財政が困窮していました。田中本陣(下本陣)の当主で名主の宿場役員であった田中休愚が尽力して、川崎宿が渡船の仕事を請け負うことになったのです。この収入によって、川崎宿はようやく貧しさから抜け出すことができ、それから東海道の往来人や川崎大師への参詣者で賑わうようになったそうです。
川崎宿が出来た当時は、そのお陰で苦しんでいた人びとがいました。「宿場はめいわく」と題して川崎歴史研究会発行「やさしい川崎の歴史」は次のように伝えています。
「ところが、東海道の宿場には、幕府の命令で、馬を36頭、人足(人夫)を36人、いつも用意しておかなければなりません。地元の百姓たちがかわるがわる出て行ってつとめました。・・・これは地元にとっては大へんな苦労でした。
川崎宿のように九根崎・新宿(しんしょく)・砂子(いさが)・小土呂(ことろ)という四つの小さな農村のより合い宿で、しかも人々がただ通り過ぎるような場所では、いっそう大変なことでした」。
天保14年(1943)の「東海道宿村大概帳」によれば、街並みは南北13町12間(約1,500m)で、家数541軒、旅籠屋は72軒を数え、人口は2,433人(男1,080人、女1,353人)でした。慶応6年(1601)から幕府領となりました。
■ 東海道 川崎宿2023いきいき作戦
東海道の川崎宿場は戦災などで古い建物は焼失し、宿場の面影はほとんどありせん。東海道の江戸から二番目の宿場で、元和9年(1623)年に東海道53次の中で最も遅い時期に宿駅に加えられました。2023年で400年目を迎えます。
現在、「東海道川崎宿2023いきいき作戦」と銘打って、市民約50名が川崎宿の歴史や文化を生かしたまちづくりをしています。
シャッターに歌川広重の東海道五十三次浮世絵を描くのもその活動の一つです。
●連絡先川崎区役所地域振興課 詳細はホームページ「東海道川崎宿」をご覧ください。
【追記】 この記事は準備ブログに2011年9月30日付で掲載したもの。請願を進めている方の話によると、この文章を読んだ記者が2011年11月18日付「神奈川新聞」に「中原区の安藤家長屋門、文化財指定求め地元住民が署名活動/川崎」という紹介記事を書いたそうです。
【追記】 2012年11月27日付でここで紹介した「安藤家長屋門」が市の文化財に指定されました。
詳細は神奈川新聞2012年12月1日付「神奈川新聞」「中原の安藤家長屋門 宿場町の面影を残す、個人所有建設分で初 市指定文化財に」を参照ください。
【小杉陣屋町・安藤家の長屋門】
江戸時代の初め、川崎宿を通る東海道はまだできあがっていませんでした。その頃の江戸に入る幹線道路は中原街道。東海道の平塚宿から中原村-用田-中山を通り、小杉村から丸子の渡しを通って江戸へ向かっていました。その当時、江戸に入る玄関口にして、小杉御殿界隈は川崎一番にぎやかな場所だったそうです。
現在、中原街道の拡張工事が進み、当時の建物はほとんど見られません。直角に曲がったせまい「かぎの道」=下の写真=がその面影を残しています。(小杉御殿前でカギ型に曲がっていたのは、軍事的な配慮だったと考えられています)しかし、当時の建物が今も街道沿いに残されています。それが安藤家が先祖代々守ってきた長屋門です。
ただ通ると見逃してしまうかもしれません。でも、中原街道沿いには「川崎歴史ガイド・中原街道ルート 旧名主家と長屋門」の案内板があります。「江戸時代この辺りの名主の代表格だった安藤家。代官から賜った長屋門が今に残る。門の内側にある高札のほか、この旧家には古文書、絵図など貴重な歴史資料が多く残されている」。
一方、東海道の川崎宿場は戦災などで古い建物は焼失し、宿場の面影はほとんどありせん。
小杉・丸子地域も1945年4月15日の空襲で医大病院や大西学園がまっさきに攻撃をされ全焼したのをはじめ、新丸子駅西口から小杉町1丁目まで完全に焼野原となりましたが、長屋門は戦火から免れました。
川崎郷土研究会役員の羽田猛さんは自主出版本「写真で綴る 中原街道と周辺の今昔」の中で次のように記しています。
「入り口の長屋門は江戸中期、名主であった安藤家へ代官の娘が嫁入りした時に、江戸の代官屋敷の裏門を運ばせ、ここに建てたものと伝えられている。
門の左側に大きな木の幹の一部分が保存されている。このような「けやき」が、安藤家の前から西明寺方向に並木のように街道をおおっていた。道の両側には用水掘があり、綺麗な水が流れていた。
しかし、電話線が引かれたり電柱が建てられたり、道幅が広げられたりなどで、木も用水もなくなってしまった」。
ただ通ると見逃してしまうかもしれません。でも、道路沿いには「川崎歴史ガイド・中原街道ルート 旧名主家と長屋門」の案内板=写真右下=があります。「江戸時代この辺りの名主の代表格だった安藤家。代官から賜った長屋門が今に残る。門の内側にある高札のほか、この旧家には古文書、絵図など貴重な歴史資料が多く残されている」。
安藤家は戦国時代に小田原の北条市に仕えた安藤因幡主につながる旧家。北条氏が1590年に豊臣秀吉に敗れると、安藤家の祖先は農民となり小杉に定住し代々名主を務めていたそうです。
長屋門には3枚の高札が掲げられています。羽田さんは著書の中で、その一つを分かりやすく次のように紹介しています。
1.人たるものは、五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の道を正しくすべき事
1.妻や夫をなくした者、幼くして親のない者、老いて子をなくした者を、病によって不具になった者を、あわれむべき事
1.人を殺し、家を焼き、財を盗むなどの悪業あるまじき事
慶応4年(1868)3月 太政官 (参照)
■ 江戸初期の小杉村は、川崎で一番にぎやかな場所
川崎歴史研究会発行「やさしい川崎の歴史」には次のように記されています。
「家康は小杉村に宿舎を造り、江戸に入る地方の大名や家来たちの休む所にしました。はるばる遠い地方からやって来た大名や武士たちは、ここで疲れを休め、多摩川を渡って江戸に行きました」。
将軍たちは「お鷹狩り」といって、時々この地を訪れ事情を調べ、休養しました。将軍様のお休みところとなるので「小杉御殿」と呼ばれるようになったいわれています。ちょうど現在の「かぎ」道=写真=の当たりに宿舎がありました。御殿内には御賄屋敷、御蔵屋敷、御屋敷など立並び、その敷地は、中原街道と多摩川の旧土手との間に1万2千坪(約4万㎡)に及んでいました。
「自然、江戸へ行き来する大名・武士・町人・旅芸人などの人びとで、小杉村はにぎわってきました。一ぜんめし屋(食堂)・はたご(旅人の泊る宿)なども、街道に建ちならびました。この付近の人々は、今まで見たこともない各地方(国)の武士を相手に、活発な商売をはじめました。こうして、江戸初期の小杉村は、川崎で一番にぎやかな場所になりました。
このような侍たちへの心づかいも、全国の大名たちを、しっかりおさえようとした家康の考え方でした。細かなところにぬけ目がなく気を配る政治、これが徳川氏の方針であり、江戸幕府を長くした土台なのです。まもなく、川崎を通る東海道ができると、この中原街道も小杉村も、次第にさびれていきました」。
しかし、中原街道は、江戸への距離が東海道より短いため、平塚の酢や秦野煙草の運送、沿路の物資や農作物の郵送に利用されるようになりました。
■ 「安藤家長屋門」の川崎市文化財指定」へ請願
「この由緒ある旧家の長屋門を、ぜひ川崎市の文化財に指定し、後世にしっかりと保存、継続していただきたく、お願いし申し上げます」という著名活動が行われています。
この歴史ある中原街道は大きく姿を変えつつあります。しかし、安藤家長屋門のようにその歴史の痕跡は今もの脈々と残ってきました。
■参考資料
●歴史と緑の散策マップ・・中原区役所のホームページに散策マップが紹介されています。これは「なかはら20年構想委員会」の協力で、「中原区役所区民協働推進部地域振興課」が作成しました。JR武蔵中原駅から東急新丸子駅までの全長5.2㎞、時間52分の「歴史の道探訪 中原街道コース」中に「名主長屋門」があります。
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今昔物語 番外編 川崎宿
■ 田中休愚の貧乏脱出作戦
川崎は江戸時代に東海道53次の中で最後に作られた宿場。多摩川の下流は六郷川と呼ばれ、あばれ川で大橋をかけても流される交通の難所でした。当時、川崎宿は大変貧しく財政が困窮していました。田中本陣(下本陣)の当主で名主の宿場役員であった田中休愚が尽力して、川崎宿が渡船の仕事を請け負うことになったのです。この収入によって、川崎宿はようやく貧しさから抜け出すことができ、それから東海道の往来人や川崎大師への参詣者で賑わうようになったそうです。
川崎宿が出来た当時は、そのお陰で苦しんでいた人びとがいました。「宿場はめいわく」と題して川崎歴史研究会発行「やさしい川崎の歴史」は次のように伝えています。
「ところが、東海道の宿場には、幕府の命令で、馬を36頭、人足(人夫)を36人、いつも用意しておかなければなりません。地元の百姓たちがかわるがわる出て行ってつとめました。・・・これは地元にとっては大へんな苦労でした。
川崎宿のように九根崎・新宿(しんしょく)・砂子(いさが)・小土呂(ことろ)という四つの小さな農村のより合い宿で、しかも人々がただ通り過ぎるような場所では、いっそう大変なことでした」。
天保14年(1943)の「東海道宿村大概帳」によれば、街並みは南北13町12間(約1,500m)で、家数541軒、旅籠屋は72軒を数え、人口は2,433人(男1,080人、女1,353人)でした。慶応6年(1601)から幕府領となりました。
■ 東海道 川崎宿2023いきいき作戦
東海道の川崎宿場は戦災などで古い建物は焼失し、宿場の面影はほとんどありせん。東海道の江戸から二番目の宿場で、元和9年(1623)年に東海道53次の中で最も遅い時期に宿駅に加えられました。2023年で400年目を迎えます。
現在、「東海道川崎宿2023いきいき作戦」と銘打って、市民約50名が川崎宿の歴史や文化を生かしたまちづくりをしています。
シャッターに歌川広重の東海道五十三次浮世絵を描くのもその活動の一つです。
●連絡先川崎区役所地域振興課 詳細はホームページ「東海道川崎宿」をご覧ください。
【追記】 この記事は準備ブログに2011年9月30日付で掲載したもの。請願を進めている方の話によると、この文章を読んだ記者が2011年11月18日付「神奈川新聞」に「中原区の安藤家長屋門、文化財指定求め地元住民が署名活動/川崎」という紹介記事を書いたそうです。
【追記】 2012年11月27日付でここで紹介した「安藤家長屋門」が市の文化財に指定されました。
詳細は神奈川新聞2012年12月1日付「神奈川新聞」「中原の安藤家長屋門 宿場町の面影を残す、個人所有建設分で初 市指定文化財に」を参照ください。
by nakahara-machi
| 2012-07-19 23:49
| もっと知ろう中原/今昔物語