川崎市中原区の課題や問題点を区民自ら考え調査・検討するほか、市民活動団体の支援・広報等実践活動を行っています。

by 中原区まちづくり推進委員会
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8月8日(水)まちづくりサロンのご案内

次回のまちづくりサロンは、

「Webなかはらっぱの更新をしよう!」

を予定しています。

Webなかはらっぱ

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中原区民交流サイト「Webなかはらっぱ」には、
中原区民交流センターに登録する約200の団体の情報が掲載されています。

Webなかはらっぱでは、各団体の団体情報のほか
イベント情報やイベント報告などの情報を見ることができます。

情報の更新は、各団体のID、パスワードで行えます。

次回のまちづくりサロンでは、Webなかはらっぱの更新方法などをいっしょに体験していただきます。

中原区民交流センター登録団体のみなさまはもちろん、
今後センターへの登録を考えている団体のみなさまもご参加をお待ちしています。


ぜひ、ご参加ください。


日時:8月8日(水)13:30~15:30頃
(途中参加、退出自由)

場所:区役所5階 区民交流センター「なかはらっぱ」


*事前申し込みは必要ありません。当日直接お越し下さい。

まちづくりサロンについてはコチラをご覧ください。

お問合せ
中原区役所地域振興課 TEL 044-744-3324
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by nakahara-machi | 2012-07-31 13:53 | まちづくりサロン

等々力緑地の蓮の花

今年も等々力緑地の蓮の花がきれいに咲きました。

朝6:30頃撮影しました。


Published by デジブック
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by nakahara-machi | 2012-07-25 16:32 | まちふぉと倶楽部

第8回なかはら市民活動の集い“なかはらっぱ祭り”に参加!!

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2012年7月15日(日)中原市民館で開催された第8回「なかはら市民活動の集い~なかはらっぱ祭り~」に、まちづくり推進委員会からは、

マナー・モラルポスターの展示

公園井戸端会議の昔遊び

まちふぉと倶楽部の写真展

出張まちづくりサロンの折り紙教室

で参加しました。


各企画にサポーターの応援があり、かけもちの多い委員も安心して活動できました。感謝!!

各企画のスナップをまとめて紹介します。


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恒例の“マナー・モラルポスター展”


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しっかり鑑賞して下さる方には、感想を聞きたかったですね~


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新企画“お豆つかみ選手権”集中力が試されます!


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さっそく“おはじき”に夢中です!


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積み木は、大人にも大人気!?


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大混雑の時間帯でした~~


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「まちふぉと写真展」は、初夏の作品です。


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出張「まちづくりサロン」は、折り紙教室でした。


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子供だけでなく、お母さんも熱心でした!




★8月25日に、新城にぎどん夜店市に「昔遊び」が出展予定です。 
後日改めて詳しい案内をお知らせいたします。
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by nakahara-machi | 2012-07-24 09:09 | 推進委員会全体

「なかはらフォトコンテスト」ボランティアスタッフ募集中です!

第3回「なかはらフォトコンテスト」では、
運営ボランティアスタッフを募集しています。


写真が好きな方、活動に興味のある方など、ぜひご協力ください。
(すべてにご参加できなくても(1回でも)OKです。)

詳細は、こちらを御覧ください。
スタッフ募集ページ

中原区まちづくり推進委員会事務局
中原区役所地域振興課まちづくり推進係(区役所4階)
TEL 044-744-3324 FAX 044-744-3346
E-mail nakahara-machi@excite.co.jp
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by nakahara-machi | 2012-07-24 08:00 | まちふぉと倶楽部

残そう昔の風物 ―安藤家の長屋門―

■ 500年の歴史を見てきた安藤家の長屋門  
【小杉陣屋町・安藤家の長屋門】

d0241210_23415617.jpg  江戸時代の初め、川崎宿を通る東海道はまだできあがっていませんでした。その頃の江戸に入る幹線道路は中原街道。東海道の平塚宿から中原村-用田-中山を通り、小杉村から丸子の渡しを通って江戸へ向かっていました。その当時、江戸に入る玄関口にして、小杉御殿界隈は川崎一番にぎやかな場所だったそうです。
 現在、中原街道の拡張工事が進み、当時の建物はほとんど見られません。直角に曲がったせまい「かぎの道」=下の写真=がその面影を残しています。(小杉御殿前でカギ型に曲がっていたのは、軍事的な配慮だったと考えられています)しかし、当時の建物が今も街道沿いに残されています。それが安藤家が先祖代々守ってきた長屋門です。

ただ通ると見逃してしまうかもしれません。でも、中原街道沿いには「川崎歴史ガイド・中原街道ルート 旧名主家と長屋門」の案内板があります。「江戸時代この辺りの名主の代表格だった安藤家。代官から賜った長屋門が今に残る。門の内側にある高札のほか、この旧家には古文書、絵図など貴重な歴史資料が多く残されている」。
  一方、東海道の川崎宿場は戦災などで古い建物は焼失し、宿場の面影はほとんどありせん。 
  小杉・丸子地域も1945年4月15日の空襲で医大病院や大西学園がまっさきに攻撃をされ全焼したのをはじめ、新丸子駅西口から小杉町1丁目まで完全に焼野原となりましたが、長屋門は戦火から免れました。


 川崎郷土研究会役員の羽田猛さんは自主出版本「写真で綴る 中原街道と周辺の今昔」の中で次のように記しています。

 「入り口の長屋門は江戸中期、名主であった安藤家へ代官の娘が嫁入りした時に、江戸の代官屋敷の裏門を運ばせ、ここに建てたものと伝えられている。
 門の左側に大きな木の幹の一部分が保存されている。このような「けやき」が、安藤家の前から西明寺方向に並木のように街道をおおっていた。道の両側には用水掘があり、綺麗な水が流れていた。
 しかし、電話線が引かれたり電柱が建てられたり、道幅が広げられたりなどで、木も用水もなくなってしまった」。

d0241210_23423832.jpg   ただ通ると見逃してしまうかもしれません。でも、道路沿いには「川崎歴史ガイド・中原街道ルート 旧名主家と長屋門」の案内板=写真右下=があります。「江戸時代この辺りの名主の代表格だった安藤家。代官から賜った長屋門が今に残る。門の内側にある高札のほか、この旧家には古文書、絵図など貴重な歴史資料が多く残されている」。

 安藤家は戦国時代に小田原の北条市に仕えた安藤因幡主につながる旧家。北条氏が1590年に豊臣秀吉に敗れると、安藤家の祖先は農民となり小杉に定住し代々名主を務めていたそうです。

 長屋門には3枚の高札が掲げられています。羽田さんは著書の中で、その一つを分かりやすく次のように紹介しています。

 1.人たるものは、五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の道を正しくすべき事
 1.妻や夫をなくした者、幼くして親のない者、老いて子をなくした者を、病によって不具になった者を、あわれむべき事
 1.人を殺し、家を焼き、財を盗むなどの悪業あるまじき事

              慶応4年(1868)3月 太政官 (参照

■ 江戸初期の小杉村は、川崎で一番にぎやかな場所

 川崎歴史研究会発行「やさしい川崎の歴史」には次のように記されています。

d0241210_23532278.jpg 「家康は小杉村に宿舎を造り、江戸に入る地方の大名や家来たちの休む所にしました。はるばる遠い地方からやって来た大名や武士たちは、ここで疲れを休め、多摩川を渡って江戸に行きました」。
 将軍たちは「お鷹狩り」といって、時々この地を訪れ事情を調べ、休養しました。将軍様のお休みところとなるので「小杉御殿」と呼ばれるようになったいわれています。ちょうど現在の「かぎ」道=写真=の当たりに宿舎がありました。御殿内には御賄屋敷、御蔵屋敷、御屋敷など立並び、その敷地は、中原街道と多摩川の旧土手との間に1万2千坪(約4万㎡)に及んでいました。
 
「自然、江戸へ行き来する大名・武士・町人・旅芸人などの人びとで、小杉村はにぎわってきました。一ぜんめし屋(食堂)・はたご(旅人の泊る宿)なども、街道に建ちならびました。この付近の人々は、今まで見たこともない各地方(国)の武士を相手に、活発な商売をはじめました。こうして、江戸初期の小杉村は、川崎で一番にぎやかな場所になりました。
このような侍たちへの心づかいも、全国の大名たちを、しっかりおさえようとした家康の考え方でした。細かなところにぬけ目がなく気を配る政治、これが徳川氏の方針であり、江戸幕府を長くした土台なのです。まもなく、川崎を通る東海道ができると、この中原街道も小杉村も、次第にさびれていきました」。
しかし、中原街道は、江戸への距離が東海道より短いため、平塚の酢や秦野煙草の運送、沿路の物資や農作物の郵送に利用されるようになりました。


■ 「安藤家長屋門」の川崎市文化財指定」へ請願

 「この由緒ある旧家の長屋門を、ぜひ川崎市の文化財に指定し、後世にしっかりと保存、継続していただきたく、お願いし申し上げます」という著名活動が行われています。
  
 この歴史ある中原街道は大きく姿を変えつつあります。しかし、安藤家長屋門のようにその歴史の痕跡は今もの脈々と残ってきました。
 
 
■参考資料

歴史と緑の散策マップ・・中原区役所のホームページに散策マップが紹介されています。これは「なかはら20年構想委員会」の協力で、「中原区役所区民協働推進部地域振興課」が作成しました。JR武蔵中原駅から東急新丸子駅までの全長5.2㎞、時間52分の「歴史の道探訪 中原街道コース」中に「名主長屋門」があります。 

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今昔物語 番外編 川崎宿

■ 田中休愚の貧乏脱出作戦
d0241210_2346560.jpg 川崎は江戸時代に東海道53次の中で最後に作られた宿場。多摩川の下流は六郷川と呼ばれ、あばれ川で大橋をかけても流される交通の難所でした。当時、川崎宿は大変貧しく財政が困窮していました。田中本陣(下本陣)の当主で名主の宿場役員であった田中休愚が尽力して、川崎宿が渡船の仕事を請け負うことになったのです。この収入によって、川崎宿はようやく貧しさから抜け出すことができ、それから東海道の往来人や川崎大師への参詣者で賑わうようになったそうです。

 川崎宿が出来た当時は、そのお陰で苦しんでいた人びとがいました。「宿場はめいわく」と題して川崎歴史研究会発行「やさしい川崎の歴史」は次のように伝えています。
 
 「ところが、東海道の宿場には、幕府の命令で、馬を36頭、人足(人夫)を36人、いつも用意しておかなければなりません。地元の百姓たちがかわるがわる出て行ってつとめました。・・・これは地元にとっては大へんな苦労でした。
 川崎宿のように九根崎・新宿(しんしょく)・砂子(いさが)・小土呂(ことろ)という四つの小さな農村のより合い宿で、しかも人々がただ通り過ぎるような場所では、いっそう大変なことでした」。

天保14年(1943)の「東海道宿村大概帳」によれば、街並みは南北13町12間(約1,500m)で、家数541軒、旅籠屋は72軒を数え、人口は2,433人(男1,080人、女1,353人)でした。慶応6年(1601)から幕府領となりました。

■ 東海道 川崎宿2023いきいき作戦 

d0241210_23464173.jpg 東海道の川崎宿場は戦災などで古い建物は焼失し、宿場の面影はほとんどありせん。東海道の江戸から二番目の宿場で、元和9年(1623)年に東海道53次の中で最も遅い時期に宿駅に加えられました。2023年で400年目を迎えます。

 現在、「東海道川崎宿2023いきいき作戦」と銘打って、市民約50名が川崎宿の歴史や文化を生かしたまちづくりをしています。
 シャッターに歌川広重の東海道五十三次浮世絵を描くのもその活動の一つです。

●連絡先川崎区役所地域振興課 詳細はホームページ「東海道川崎宿」をご覧ください。  

【追記】 この記事は準備ブログに2011年9月30日付で掲載したもの。請願を進めている方の話によると、この文章を読んだ記者が2011年11月18日付「神奈川新聞」に「中原区の安藤家長屋門、文化財指定求め地元住民が署名活動/川崎」という紹介記事を書いたそうです。

【追記】 2012年11月27日付でここで紹介した「安藤家長屋門」が市の文化財に指定されました。
詳細は神奈川新聞2012年12月1日付「神奈川新聞」「中原の安藤家長屋門 宿場町の面影を残す、個人所有建設分で初 市指定文化財に」を参照ください。
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by nakahara-machi | 2012-07-19 23:49 |  もっと知ろう中原/今昔物語

町内会・自治会にちょと目を向けてみませんか!

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【写真:中原区上平間第2町会の高齢社会部の独居老人等の見守りパトルール中】

中原区には町内会・自治会が幾つあると思いますか? 77です。「中原区町内会連絡協議会」という組織もあり、事務局を「中原区役所地域振興内」(☎044-744-3159)に置いています。区内では82,896世帯(平成23年4月現在)の約7割が加入しています。

■ 暗い時代もありました 

 その歴史にはちょっと暗い時代がありました。

 ウィキペディアの「町内会」の説明によれば、『元々は日中戦争の頃から日本各地で組織され始め、太平洋戦争の戦時下に大政翼賛会の最末端組織として1940年に市には「町内会」、町村には「部落会」が国によって整備されたのが起源であるとされる』そうてす。

 「もちろん戦前の町内会隣組は、・・・最終的には最短部の行政組織として制度化され、赤裸々な権力支配の道具となった」(中川幾朗編著『地域自治のしくみと実践』の玉野和志著「わが国のコミュニティ政策の流れ」)。「戦後、アメリカ占領軍は町内会を日本の民主化を拒むものとして徹底的に排除しようとした」「占領軍による禁止と自治体による非公認の中でも、別の組織などの形を借りて存続し」、講和条約後、「町内会・自治会というかたちで公然と復活を遂げた」。

■ 阪神・淡路大震災で見直されたコミュニティ 
  ― 失ってわかったセーフティネット機能


 1995年の阪神・淡路大震災で、地域コミュニティの大切さが見直されたそうです。『そこから今日まで続く「防災・防犯まちづくり」や「高齢者や子ども見守り」「住民主体の地区計画の策定」といった活動が全国に広がっていった」(『地域自治のしくみと実績』相川康子著「震災とコミュニティ 新しいコミュニティを考える原点」から)
 相川氏は地域コミュニティの落とし穴として『“文句”をいう人を許さず、外部の支援者らを頑迷に受け入れない風潮も出てくる。地域社会の年輩の男性リーダにこの傾向が強く「地域内のことは我々がやるから、外から口出し・手出しは無用』となる』と「外に向かって開く」ことも重要」と訴えている。

 そして、3.11東日本大震災は地域やコミュニティの絆の大事さを教えてくれました。転換点になっていくことでしょう。

■ 中原区でも新しい動き 
  「お年寄りと心通う町へ」 上平間第二町会・高齢社会部


 写真は上平間第二町会・高齢社会部が89、86歳の夫婦2人住まいの家を訪ねている様子です。リーダーが地域連絡員を連れ、担当区域の近所のお年寄りを毎月数度見回る活動をしています。いつしか心が通うようになり、1時間も話し込むこともあるそうです。

  多摩川沿いの田畑地が戦後約1300世帯の木造住宅密集地帯になり、やがて独居老人が目立つ町会になってきました。そこで、町会が高齢社会部を設置、独自対策に乗り出しました。

 「反対の声もあったが、強引にしなければならなかったです。意見を出してもらいリーダーを指名しました」と初代部長は語ってくれました。

  無常にも風呂で死後発見という事もありましたが、家で骨折して動けなくなった人や栄養失調の人の命を救う事もありました。


 こんなユニークな活動をしている区の町内会を探しています。ご紹介ください。
                       
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by nakahara-machi | 2012-07-19 23:11 |  もっと知ろう中原/町内会

もっと知ろう中原区の統計

d0241210_11453491.jpg【平成24年度版川崎市発行「川崎市統計データブック」】


  国勢調査で平成17年と22年の比較で、中原区はすべての区の中で人口増加率が最も高く、11.1%、増加数23,232人になりました。武蔵小杉駅周辺地区を中心に高層マンションが林立し、再開発が進んでいます。 このような情報でも分かるようで、なかなかすぐに知ることができません。

 中原区役所のホームページには中原区の統計情報があります。

 昔は? と思っても情報がなかなか探せません。でも、市のホームページを深く探れば、少しずつ分かってきます。

 1982(昭和47)年の中原区の人口は現在の59%・140,567人、世帯数は46%・54,549世帯だっと分かります。この30年大きく変わってきたと言えるでしょう。詳しくは毎年10月1日の「区の人口と世帯数」の中の中原区の表を見てください。「川崎市町丁別世帯数・人口」で近年の中原の町別人口も分かります。

d0241210_12401044.jpg■ 時代の流れ共に、歴史は流れ ― 自治から任命へ ―
  そもそも1889(明治22)年、小杉・上丸子・宮内・上小田中・下小田中・新庄の6つの村がひとつになって、中原村が生まれました。
  「明治5年、村の代表を戸長とよび、政府の仕事をするようになりまたが、ほとんどの村では、戸長を自分たちで選び、村の有志が相談して決めていました」ところが「戸長が、こともあろうに、政府に反対する自由民権の先頭に立」つようになり、「政府にとってまことにこまったこと」になったそうです。
 それで、「1884(明治17)年には、戸長を県が決めることにしました。つまり、戸長は村の代表ではなく政府の役人にしたのです」。そんな訳での統合でした。

 1925(大正14)年 中原村と住吉村が合併し、中原町制施行。

 明治初頭、中原「町の大部分は、米作りを主とする農村で、ここでの生活は川崎市とちがい、ますます苦しくなっていました」。「中原町の税金では、町のさまざまな事業をまかなうことができなかったのです」。「いっぽう、川崎市は、工場がふえて敷地や住宅地をまわりの町や村に広げなければいけなくなっていました」。そうした背景で、1933(昭和8)年中原町が川崎市と合併。

(年表は「中原区の歴史年表」を参照ください)

 
 中原区のこんな歴史話やデータを集めていきたいと思います。

 中原区のこんな話あんな話を、また、統計データの出典を明記の上ご提供ください。

 (右写真はH24年版川崎市統計データブック7から引用です。詳しくはここをクリックしてPDFファイルを開き、74頁をご覧ください。                  
●参考資料:川崎歴史研究会編集「やさしい川崎の歴史」
尚、「川崎市統計データブック」は平成18年から平成24年度版まで全頁が市のホームページでダウンロードできます。
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by nakahara-machi | 2012-07-19 00:28 |  もっと知ろう/中原区の統計

インターネットで備える、防災・減災情報

d0241210_03317100.jpg■ 防災お役立ち資料は区役所、インターネットで入手
 「備える。かわさき」冊子=左写真=を持っていると、「どこでもらえるのですか?」と聞かれました。2011年7月17日に行われた防災フォーラムの時です。当日、会場の席分300部の資料が用意されていましたが、不足するほどでした。
 こうした情報は区役所に並べられています。また、武蔵小杉駅舎下の川崎市小杉行政サービスコーナなどにも置いています=下写真。
 さらに、ほとんどがPDF版となって、市のホームページから入手できます。フィリピンの公用語タガログ版を含む6ヶ国版が備えられています。保育園児・小学生向けの「やさしいにほんご版」やポータブル版もあります。
 中原区役所でも「中原区地域防災計画」が作られ、詳細がネット上に公開されています。
 
 こうした便利な情報を集めてみました。

■ 災害時応急給水拠点

上下水道局では地震などの災害に備えて、市内に応急給水拠点を123か所設置しています。
川崎市上下水道局のホームページには災害時の中原区の応急給水マップなどがあります。
中原区には、18ヶ所の応急給水拠点があります。災害により万一水道水が出なくなった場合に、応急給水をします。自宅の近所の拠点を中原区地図(下記図はその一部)で確認できます。

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中原区の応急給水マップ(PDF)

■お勧め防災サイト

1.一般向け
「備える。かわさき」保存版・・・「川崎市では、災害に対する日ごろの備えなど、市民の皆様に役立てていただける情報を掲載した、『備える。かわさき(保存版)』を作成しています。各個人、家庭での防災対策や、地域の防災を考える一助にしていただければと思います。市民の皆様からの意見を参考にさせていただき、より充実した内容となっておりますので、ぜひ御覧ください」。(2010年10月1日版)
● 「川崎防災マップ」・・・各区の避難場所、備蓄倉庫、給水拠点などが一覧表となっている。地図や施設名をクリックすると地図と住所が表示される。
●「 川崎防災情報ポータルサイト」・・・・トップページに最新の緊急情報が掲載される。各種注意報、警報といった気象情報の他、いざという時にライフラインの情報、避難所の最新情報が載る予定だ。現在、「市内の放射線について、水道水、大気、食品、汚泥、海水、学校等で測定した結果」が示されている。

2.もっと少し深く
●中原区地域ごとの震度予想図
(荏本孝久教授の防災フロンティアHP(神奈川大学学術フロンティア研究事業・災害リスク軽減を目的としたソフト・ハード融合 型リスクマネジメントシステムの構築に関する研究による)
南関東地震・・・6強から6弱予想図
中原区の揺れ易さマップと地盤図・・・あなたの住む地区の地盤情報を確認してください。
中原区の地盤増幅幅図・・・地域による震の増幅。その増幅率が地図上に現れてます。
 「地下浅部の地盤構造によって、振動振幅が大きく増幅されます。・・・地盤増幅率が大きいほど相対的に揺れ易いことになります」。中原区の地図に落とし込んでいます。あなた住む地域をチェックしてみてください。

■ 不安な情報を直視しよう。

d0241210_0365616.jpg 当日の防災フォーラムのアンケート結果(中原区69、幸区2、高津区1、川崎区1、載なし21)を送ってもらった。
 「市民が不安になるような、署長さん達の発言は避けてほしい(60代男性、幸区)」

 重複しますが、「いざ大震災の時、すぐに助けに行くことはできません。3日、4日は自分の力でなんとかしていただかなければなりません。超高層マンションでは1週間と考えて下さい」と消防署関係者。
 「私たちも治安を必ずしも保てるかどうか分かりません。東日本ではできたかもしれませんが、川崎では・・・」と厳して見方も警察署関係者から聞かされました。

 このことを考えることが防災の一歩ではないでしょうか。

 川崎市も防災・減災情報を詳細に公開しています。どうしたら良いか、インターネットからでもちょっと覗いてみませんか? 

 こうした防災・減災情報を募集しています。皆さんの知恵をお貸ください。情報をお待ちしております。
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by nakahara-machi | 2012-07-14 00:33 |  もっと知ろう中原/防災・減災

中原区の防災・減災情報を収集しよう

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【写真真:川崎市のホームページより「川崎市防災マップ中原区」(pdfファイル)】

 「「人間は一度体験したことでないと、いざという時に判断できません。小さな地域で防災を考え、地域をつなぎ守ろうとすれば、防災力は強化されるのです」という話を、川崎市幸区で防災活動をしている市民団体「机上防災訓練研究会」の代表・野村理さんから直接お聞きしました。

 それから間もなく、3.11東日本大震災が起こりました。準備を怠っていたことは明白だったと感じました。

 一方、今回の大震災で大活躍した自衛隊はどうだったでしょうか? 「正式要請の前に、すべての艦隊が現地に向けて出港した。その結果、12日未明には20隻あまりが東北沖海域に入ったのである」(「Will」6月号「総力特集 自衛隊かく戦えり 疾風の如く、十万自衛隊出動す!」山崎澄夫氏より)1995年の阪神淡路大震災では、「自衛隊への出動が遅れて、みすみす数多くの命が失われたのは記憶に新しい」その「深刻な反省から改められた、いわゆる“自主派遣”だった」そうです。

 宮城県沖で「30年間にM7.5以上の地震が起きる可能性は、99%」とはじき出されていました。

 川崎市ではちょうど昨年の震災2日前、3月9日「防災市地震地域防災戦略」を設定しました。

 防災では、まず自助、次に、共助、そして公助だそうです。「被災3日間は自力で対処しなければならない」と言われてますが、今回の震災のことをみると、当てにならないかもしれません。

 防災には万能の教科書はありません。行政に頼るのではなく、個人や家族が地域で備える必要があるでしょう。

 もっと知ろう防災を、中原区民の手で集めてみませんか。 
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by nakahara-machi | 2012-07-14 00:28 |  もっと知ろう中原/防災・減災

大震災の備え、人の輪から ―防災まちづくりフォーラムより

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2011年7月17日(日)、中原市民館での「第7回なかはらっぱ祭り」で、防災まちづくりフォーラム(主催 なかはら20年構想委員会・中原区役所)が行われました=写真。

【基調講演の内容から】

■ 「自分だけは大丈夫」という偏見を捨てよ!
 防災ってなんだろう? 「まずは“自分だけは大丈夫”だという偏見を捨てることです」と基調講演を行った財団法人市民防災研究所の岡島醇(あつし)さん。
 (中高年のアイドル、毒舌漫談で有名な)お笑いの綾小路きみまろさんに、タレントの黒柳徹子さんが聞いたそうです。「すいぶんひどいことをおっしゃっていますが、恨まれたりしないのですか?」「いいえ、あの人たちは自分のことだと思ってませんから」
 防災についても同じことが言えるのです。

■ 防災の基本は近所の付き合いから
 防災の基本は近隣の付き合い。「なさけは人のためにならず」「近隣を守ることは自分を守ること」「いざとなれば、好きな人から助けますよね」「嫌いな人は・・・ですよね」

■ 盲点! 電気のブレーカを落として避難を
 避難する時、電気のブレーカーを落としてください。一度、停電しても、スイッチが入ったとき、電気による火事が多いのです。

■ 防災教育が命をつなぐ
 「岩手県釜石市は今回の被災で死者、行方不明者が1,100人を超えたが、約3,000人いる小中学校は殆どが無事で避難した。同市では2004年から小中学生に津波の恐ろしさを教えてきた」。釜石東中学校は「ぼうさい甲子園2年連続(中学の部)受賞。(毎日新聞社「ぼうさい甲子園」全国の取組(2)優秀賞 参照

■ いずという時に向かって
1.家族の安否確認の訓練を:「災害用伝言ダイヤル 171」「災害用伝言板メール」「公衆電話」など複数の方法で。
2.自分の家にあるものを工夫:避難所には人が殺到し、生活の場がない。まずは家で頑張る。電気・ガス・水道が止まるのは当たり前。止まっても4~5日は過ごせる知恵と工夫が大切です。

【東日本大震災の現場から感じたこと ― 普段の付き合いが有事に連帯を生む ―】

d0241210_1132513.jpg 東日本大震災の現場に直接赴き、実際の体験から感じたことを、医師の眞川さんが語ってくれました。

 「避難所側の組織と避難者の協力度合で、避難場の居心地さが左右されていた」と感じたそうだ。
 そこで分かったことは、「顔の見える関係なら協力やニーズの集約が容易になる」こと。自治体、町内会、学校管理者の協力があってこそ、支援が円滑にできるというもの。「普段の付き合いが、有事に連携できる原動力」と強調した。

【消防所、警察の方々から ― 「いざという時すぐに助けに行くことはできません」】

 「私たちは少ない人数なのでいざ大震災の時、すぐに助けに行くことはできません。3日、4日は自分の力でなんとかしていただかなければなりません。超高層マンションでは1週間と考えて下さい」と消防署関係者。
 「私たちも治安を必ずしも保てるかどうか分かりません。東日本ではできたかもしれませんが、川崎では・・・」と厳して見方も警察署関係者は語ってくれました。

【追記】2011年9月4日付神奈川新聞社説『「釜石の奇跡」に学ぼう』から抜粋引用

■ 正常化の偏見
 防災学において、その心の動きは「正常の偏見」と呼ばれる。
 人間は自分の都合の悪い情報は過少評価し、都合のいい情報は過大評価する傾向にある。年間6千人が交通事故に遭うと聞いても、自分はその一人になるとはなかなか思えない。ところが、宝くじが6千人に当たるといわれると、途端に当たる気がしてくる。といった具合だ。
 だから大雨や津波の避難勧告が出されても、これまで川があふれたことは一度もないとか、防潮堤があるから大丈夫だ、などと理由をつけ、逃げないことを正当化しようとする。

■ 釜石の奇跡
 想定に縛られてはいけない。岩手県釜石市では、その逆説的な教えが子どもたちを救った。
 1300人以上が犠牲になった同市で、小中学生2926人のうち亡くなったのは5人。生存率99.8%という避難劇は「釜石の奇跡」と称される。
 揺れたらまず逃げる。逃げるべきだと分かっていても行動に移せない人の先陣を切る率先避難者になる。群馬大学院の片山敏孝教授の指導を受け、8年前から続けてきた防災教育の成果だった。
 隣接する釜石東中学校と鵜住居小学校では、校庭を走って横切る中学生の列に小学生が続いた。一度は指定の避難所場所に集まったが、遠くの波しぶきが立つのが見え、さらに高台を目指した。想定が絶対ではないことを理解していたからこ取れた行動だった。
 想定は一つのシナリオにすぎない。ハザードマップはリスクを周知するすには有効だが、逃げる足を縛る恐れがあることに留意しなければならない。

*今年2012年7月15日、「中原市民活動の集い なかはらっぱ祭り」の中で「第2回なかはら防災フォーラム 「首都直下地震! 今やるべきこと」を行う。

 中原市民館ホール 開場10時15分 10時~12時15分 

講演 「宮城県名取市閖水(ゆりあげ)地区からの報告と提言」 
     名取市教員委員会学務専門員 八森伸さん
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by nakahara-machi | 2012-07-14 00:28 |  もっと知ろう中原/防災・減災